群馬県倫理法人会


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万人幸福の栞

倫理研究所を創設して「純粋倫理」を宣布した丸山敏雄は、そのエッセンスを17ヵ条の標語に要約して生活の指針としました。

1.今日は最良の一日、今は無二の好機

今日はまたとめぐって来ない。昨日は過ぎ去った今日であり、明日は近づく今日である。今日の外に人生はない。人の一生は、今日の連続である。 昨日を悔(く)い、明日を憂(うれ)える人がある。これは、今日の影法師(かげぼうし)にびくついている人。 今日一日、これは光明に輝き、希望にみちみちた、またなき良き日である。今日しなければ、何時その日が廻って来よう。今日をとりにがす人は、一生をとりにがす人である。  日の吉凶(よしあし)というような、迷信にかかわる人は気の毒である。宝がころげこんでも、今日は日が悪いと、これを見すてるであろうか。災悪(わざわい)がふりかかっても、今日は吉(きち)か凶(きょう)かと、運勢暦をめくって、ぼつぼつそれを払いのけるであろうか。今日は一生に二日とない幸いの日、又すきがあればどんな危険が襲うかもしれない厄日(やくび)である。黒にするか白にするか、それは己自身にある。九星早見にあるのではない。  一日は今の一秒の集積(あつまり)である。今を失う人は一日を失う人、そして一生を棒にふる人。「時は金なり」と言う。しかし、金はとりかえせる。時は再び来ない。 「気づいた時、気がるに、喜んでさっと処理する」 「気づくと同時に行なう。」 これは成功の秘訣、健康の秘法である。ずぼら者、ぐずつく人、これは皆「今」をとりにがす人。光陰矢の如し。

「時は得がたくして失い易し。」(『史記』)
「宝の山に入りて手を空しくしてかえる。」(『正法念処経』)
「鉄は熱きうちに打て。」(ウエブスター)

気づいたとき、それはその事を処理する最高のチャンスである。それをのばせば、次第に条件がわるくなる。事情の最も高潮に達した時、その波動(うごき)が、人の脳に伝わって気がつくようになっている。これは、「気づくとすぐする」という、ほんの日常の、しかも絶対な生活倫理(くらしみち)の実践によって証明せられる。 第一感を働かせよ。これは叡智(えいち)である。あとで考えたのは堕落(つまらぬ)人間のばか智恵、気づいたら、毛髪一本(かみのけいっぽん)のすき間もなく、ぐいとつかむ。ここに幸福の天地がまっている。 気づいても、いっこうに手を出さず、強情をつっぱって、なまけ心、心配性が面を出して、せっかくのチャンスを取りにがす。世の中には宝の山に入りながら、素手でぶらぶら引返す人が、どれだけあるであろうか。思い立つ日が最上吉日である。

2.苦難は幸福の門

人が恐れきらっているのは苦難である。中でも病気、災難、貧苦……世に少しの苦しみもないという家はまことに少い。必ず何か一つ、「これだけが片づいたら」と念じている「困ったこと」がある。これが今までは 「ただの困ったこと」であった 昔の人達は苦難は悪魔の仕わざだと見て、忌(い)みきらった。ある人は罪のあらわれだ、業(ごう)の報いだ、仕方がない、あきらめる外はないと考えた。「天の将(まさ)に大任(たいにん)を是(こ)の人に降さんとするや、必ず、まずその心志(しんし)を苦しめ、その筋骨(きんこつ)を労す。」 (『孟子』)  「患難(かんなん)をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。」 (「ロマ書」5の3~4)と。又(また)古(いにしえ)の勇士は、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月(みかづき)に祈ったと言われる。  これは苦難は天の試練である、堪(た)えしのんで努力すれば、よい結果が来ると考えたからであろう。しかし今や、百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)さらに一歩を進めて、苦難は、生活の不自然さ、心のゆがみの映った危険信号であり、ここに幸福に入る門があることがわかってきた。そしてこれは、日々多くの体験者によって証拠立てられている。  これがはっきりわかれば、もう苦難を恐れきらうことがなくなる。いや、よろこんで苦難に立ち向う。にっこり笑ってこれに取りくむ。そして苦難の原因になっている生活のあやまり、心の不自然さを取り去ると、かつ然として幸福の天地が開けて来る。苦難の黒幕がひらかれた時、その奥には、明るい幸福の舞台が用意されているのである。  

「門を叩(たた)け、さらば開かれん。」 (「マタイ伝」7の7)
「狭き門より入れ。滅にいたる門は大きく、その路(みち)は広く、之(これ)より入る者多し。生命(いのち)にいたる門は狭く、その路(みち)は細く、之(これ)を見出すもの少し。」(「マタイ伝」7の13~14)  

生命(いのち)に生きぬくその門は、狭い、入りにくい、又苦しい、痛い、みにくい。それがひどければひどいだけ、しっかり足をふみしめて、門のとびらを強くおし開こう。  にっこり笑って、エイと一声、かけ声勇(いさ)ましく、かたい扉をおし開こう。その奥には光明(こうめい)、歓喜(かんき)の世界がまっている。  苦難は幸福に入る狭い門である。

3.運命は自ら招き、境遇は自ら造る

人の一生は、運命という、どうすることも出来ない力で、きまった道筋を引きずられて行くものである、というように信じているものがある。そして生まれた年月日、又時間がわかれば、その人の一生はすっかりわかるなどと言う者さえある。「運は天にあり」とか「果報は寝てまて」とか言うのは、そうした考えからであろう。  しかし、いやしくも人の関係する仕事で、すてておいて、手をこまぬいて、わきから見ていて出来る仕事がどこにあるだろうか。自然の現象(しぜんのこと)は定まった法則に従って、一糸乱(いっしみだ)れず運んでいる。天候に大部分の運命がかかったように見える農業や漁業でさえ、ほうっておいては田畑は草野となり、魚群(うお)はにげてしまう。ましてや生産も交通も、教育も宗教も、何一つすてておいてできることはない。  毅然と立って行えば運は開ける。

「運は勇者を寵愛(ちょうあい)す。」 (ヴァージル)
ぐずぐずしておれば、その機会(とき)は去って二度とかえってこない。
「機会(チャンス)は前頭(まえがしら)だけに髪毛(かみのけ)があり、後頭(うしろあたま)ははげている。もしこれに出あったら前髪を捕らえよ。一度にがしたら、神様でもこれを捕らえることは出来ぬ。」 (ラブレー)

目の前にきたあらゆる機会(とき)をとらえて、断乎として善処する人、一度こうと目的を定めたら、終始一貫やってやりぬく人、これが世に言う成功者である。  「天は自ら助くる者を助く。」 ぐずぐずして、いくらその時があっても手を出さぬ。何か困ることがあると、ぐったりしてすぐ止める。これは世の弱者であり、敗残者である。塙保己一(はなわほきいち)が、日々「般若心経(はんなしんぎょう)」を読んで心をむちうち、大『郡書類従(だいぐんしょるいじゅう)』を編(へん)さんしたその努力、ヘレン・ケラー女史の師のサリバンが、いかにそのチャンスを捕らえて教育して、この三重苦(さんじゅうく)の大天才を生み出したか。これを思うと、盲目という一見不遇のさだめは、一転して大きい幸運と輝きわたった。

「各人の運命は各人の手中にあり。」 (シドニー・スミス)

従って境遇も、あらかじめ、そうしたさだめがきまっていて、その中に入って行くのではない。その人の心の通りに、境遇の方が変わるのである。現に憂うつ性の人が集まって、しめっぽい話をしている。座はいよいよ打ち沈む。ここに世に心配をしらぬ青年が、呵々(かか)と大笑して入ってくる。一座は急に停電後点燈したように明るくなる。  よわり目にたたり目、泣き面(つら)に蜂、心が打ちしめれば、その環境は、梅雨時(つゆどき)のように打ちしめり、かつ然として心が打ち開ければ、天地一碧(てんちいっぺき)、ようようたる大宇宙が打ち開ける。  運命を切り開くは己である。境遇をつくるも亦自分(またじぶん)である。己が一切である。努力がすべてである。

やれば出来る。

4.人は鏡、万象はわが師

人は人、自分は自分と、別々のいきものだと考えるところに、人の世のいろいろの不幸がきざす。実は人はわが鏡である。自分の心を映す影像(えいぞう)にすぎぬ。山彦(やまびこ)のよべば答える、それにも譬(たと)えられる。にこにこして話しかけると、相手は笑みかけて答える。大声でどなれば、むっとしてにらみかえす。物売りが来る。「イラナイヨと、つっけんどんに言うと、ピシャリと戸を引きしめて出て行く。  親子、夫婦、交友、隣人、すべてがわが鏡であって、わが心のままに変って行く。  今日(こんにち)までは、相手の人を直(なお)そうとした。鏡に向かって、顔の墨をけすに、ガラスをふこうとしていたので、一こうにおちぬ。自分の顔をぬぐえばよい。人を改めさせよう、変えようとする前に、まず自ら改め、自分が変わればよい。  これをひろげていくと、人の世のすべては、自分の鏡であり、さらに草木も、鳥獣も、自然の動きも皆、わが鏡であることが判ってくる。作物も、家畜も、わが心の生活をかえれば、その通りに変わってゆく。  それだけではない。私をとりまく大自然は、ただわが鏡というそれだけではない。求めれば、何事でも教えてくれないものはない、無上のわが師である。  自然は真理の百科辞典、書籍(ほん)はその牽引(インデックス)である。万象は真理の顕現(けんげん)であり、芸術の開花である。目を開いてこれを見、口をすすいでこれを味わい、心を空にしてこれに対するとき、興味津々(きょうみしんしん)、地上は喜びの楽土と変わってくる。  古人は言った、「万象是我師(ばんしょうこれわがし)」と。まじめにこれに師事(しじ)して尋ねる人には、正しく答えてくれる。昔の人は天を父、地を母とよんだ。父母はその子の求めには、何物をも惜しまず与える。与えられぬのは、ま心からこれを求めないからである。この求め方を教えるのは古(いにしえ)の哲人(てつじん)であり、今の学者であり、これを伝えたのが書籍(ほん)である。  だから書籍(ほん)は、これを暗記していたところで、それはインデックスを覚えているに過ぎぬ。学問は信じ過ぎるも愚であり、けいべつするも馬鹿である。

「太上(たいじょう)は天を師とし、其次(そのつぎ)は人を師とし、其次(そのつぎ)は経(けい)を師とす。」 (『言志録』

5.夫婦は一対の反射鏡

人は男性と女性と、なぜ二様になっているのであろうか。これは、人に限らず、陰と陽と、+(プラス)-(マイナス)と二通りの対立と、その合一によって、万象(すべてのもの)を、生命を、幸福を生み出すように出来ている。生成発展(うみいだし)は、相反する二つの力がとけあって一つになったとき生れる。  夫婦は合一によって、無上の歓喜の中に、一家の健康と、発展と、もろもろの幸福を産み出す。ただに子女を設けて、子孫繁栄のもとを成すばかりではない。  こう見てくると、男女は、その肉体は相反し、相補うように出来ていて、ピタリと合一するようになっているが、その心はどうであろう。  結婚の当時はうまくいくが、次第に離れて、全くはんたいの方向にさえ行ってしまう事がある。そうなると、家のことは、ちぐはぐになって、仕事も商売もうまくいかなくなる。  それがこれまでは、仕事の方ならば夫のせいにし、又子供のことなどは妻の責任にした。これが実は大まちがいである。すべてが、夫婦の心の一致しているかいないか、にかかっているのである。  これが新しい倫理の一つの大きい特色(ちがい)である。夫婦の一致和合こそは、幸福のもとである。どうしたら完全な一致が出来るであろうか。  これまでは、妻は夫を改めさせようとし、夫は妻をやかましく言った。それが大まちがいであった。夫婦は互いに向いあった反射鏡である。  夫が親愛の情にもえてやさしくすれば、妻は尊敬信頼して、世の中に夫より外に男性はないと、ただ一途に夫にたよる。この時夫は又、世に妻より外によき女性はないと、愛情をかたむける。そして明朗愛和、常に春のような、なごやかな家庭がつくられる。反対に夫がいばりすぎ、封建思想をふりかざすと、妻は小さくなって、内にこもって亀のように強情になる。妻が出しゃばり高ぶってやってのけると、夫は猫のようによわよわしく、ゆうじゅうふだんになり、どこに行っても馬鹿にされる。  互いに照らす一対(いっつい)の反射鏡、見事によくそろった夫婦が、どこにもここにも百面相を展開している。夫婦が互いに相手を直したいと思うのは逆である。ただ自分をみがけばよい。己を正せばよい。その時、相手は必ず自然に改まる。夫婦は、いつも向いあった一組の鏡である。

6.子は親の心を実演する名優である

子供は親そのままである。顔形から、身ぶりから、言語の言いぶりから、くせに至るまで……。  どんな上手な彫刻家も、これほどうまく似通った肖像を制作することは出来ない……と思われるほど、よく似ている。  ここまではだれでも知っている。けれども、親子はまだまだ思いも及ばぬところまで、同じであることに気がつかぬ。  生れて間もない子供でも、母親が忙しい時には心落ち着かず、両親に心配事があるとよく眠らぬ。大きくなるにつれて、両親がその年頃にした通りの事を繰り返す。又今している事を行ない、心に思っている事でさえ、そのまま親の身代わりに実演する。  こうしたことは、これまで心理学者も、教育学者も全く知らなかった。 そのためにどれほど子供に無理を言い、その個性を摘み取り、希望の芽生えを焼き枯らしたか知れぬ。子供の体質も、性質も、ことごとく両親にこれをうけ、くせも、日々の行ないも、12、3歳までは、全部両親の心行ないの反映である(時によると、祖父母や、学校の先生や、その外の人達の影響もあるが)。 だから子供が手に負えぬ、悪くて困るという時、その原因はことごとく両親にあると知って、自分を改め、夫婦が明朗愛和に帰る時、子供たちにはゆびいっぽんふれず、一言も言わなくとも、りっぱに直ってしまう。風がたてば、さわさわと音を立てて騒いでいた竹林が、風の止んだそのしゅん間、すっかり静まってしまうように。  子供自身に、あらわれた病気でさえも、例学なく、親の生活の不自然さが反映したまでである。これを知ったら、世の人々は、どれほど驚くことであろう。又どれほど安心することであろう。こうした事が、うそかまことか、それは人に聞くまでもない。子を持つ世の親たちは、自分自分のこれまでの生活と、子供たちの性質なり、することなりを、静かに観察すれば、はっきりとすることである。  親たちは上べを飾り、人前をつくって上品に暮していても、子供たちは、堂々と、つつみかくしなく、親の心を実演する。  家は、その小さな名優の舞台である。

7.肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号

人は、骨と肉と血と皮と……から、出来ているが,これだけで生きているのではない。これは、たましい(魂)すなわち心があって、一人の人間として、生命があるわけである。  しかし心(生命)は、どこにあるのやら、昔の人はきもにあると思っていた。それで「きもだまが太い」とか「小さい」とかという。中国では、下腹にあると思っていたらしく、丹心とか丹田とか言う。  インド辺では、のどにあると思っていたらしい。西洋では心臓にあると思ったので、心をハートと言い、この頃、「心臓が強い」などと言う。又頭にあると考えられていて、 「あの男は頭がわるい」などと言う。  しかし心が肉体のどこにあるのか、さっぱりわからぬ。いや、どこにでも行きわたっていっぱいになっている。そして、心には形がなく、肉体には形があるが、この2つが全く1つになっていて、ちょうど電球(肉体)と電流(心)とのようになっている。電流が弱いと火がホタルのようになり、強いとパッと明るくなる。人も恐れると青くなり、はらをたてると赤くなる。ひどく驚くと、腰がぬけたり、全身が動けなくなったりすることもある。  これでみると、肉体は、心のいれ物だと言える。それが、もちと重箱といったような、そういった容器ではなくて、蓄電池をみたようなもので、形のない心を、形ある肉体の中にいっぱい入れているのであり、またその心のようすで、容器の肉体がいちいち変わっていくので、「肉体は心の象徴」というより外はない。象徴というのは、それだけで十分現れてしまっているというわけではないが、これ以外には表しようがないほど、うまく表しているということである。「桜の花が、大和心のシンボルである」というように、人の肉体は、その人の心をそのまま表しているから、人相とか手相とか見て、その人の心が読めてよいわけである。いや、その人にあえば、初対面の人でも、その人物の大体は見当がつく。  そうだとすれば、肉体に病気が起った場合、これは、肉体だけがわるくなった……と片づけてよいであろうか。(肺がわるい、胃が痛む、足が自由にならぬとかいう場合)これまでは、多くの、肉体だけの故障と考えられて、そうした療法が加えられたが、実は体がバイキンにおかされたり、悪くなったりする今一つその奥の原因がある。それは心に不自然なひがみ、ゆがみが出来たことである。そのとき病気の原因になっている心のまちがいは、実は、その人の家庭の不和、事業の不振等から来る(というよりも、そうした生活環境とぴったり一致している)もので、ほうとうは、生活(家庭や仕事)の暗影(不自然さ)が、自分の肉体に赤信号としてあらわれているのである。そのあわられ方が、又実に見事に、その心の不自然さをうつしているわけである。  それで、病気の根本である心の暗影(生活の無理なところ)を切り取ってしまって、朗らかなゆたかなうるおいのある心になれば、肉体は、自然に、すぐに、直ってしまうものである。それで、病気は実に、困ったもの、人生の苦しみなどではなくて、有難い自然の注意、天の与えた赤信号であるから、喜んでうけて、間違いを直すべきである。  でないと、折角なった病気を、ただそれだけとして直しては惜しい、勿体ない。今や病気をこわがる、恐れる時代は過ぎた。よろこんで、これを利用する時代がきた。会友は皆これを体験して、明朗の世の中に生れ変っている。病気のお見舞に「それは結構です」と言う時代がきた。

8.明朗は健康の父、愛和は幸福の母

一人の明朗な心境は、その人の肉体健康の元であり、家庭健康の中心であり、事業健康の根源である。うち沈んだ、暗い、よわよわしい心の持主は、きっと体が弱い。病弱の人が一人でもあると、その家庭は梅雨時のようにじめじめする。そうした家に住む人は心がにぶる。張りをなくし、気おくれする。決断力がにぶる。何をしてもうまく行かないのが当然である。  明朗の心、1日も1分も曇らしてはならぬのは、人の心である。朝はほがらかに起き、昼はほがらかに働き、夜はほがらかに休む。昨日も明るく、今日も明るく、明日も明るい。家の中も、工場も役所も、電車も汽車も、朗らかに明るく、そして町が、国が、地上が、春のように朗らかに、秋のように明るく、健康に伸びる、実る、栄える。   真に正しい事とは、まず己が救われ、それと一緒に人が救われることでなくてはならぬ。明朗こそ、まず己が救われるともしびであり、己のかかげたこの燈火で、人もまた救われる。そして世の中が光明にかがやいて来る。  朗らかな人の心は、世のくもりを照らす光である。明朗は、万善のもとであり、健康の朝光である。  人を生み、育て、やしなう、これは親の愛である。家庭をつくり、社会をいとなみ、人の世の幸福と文化を生み出すもとは、人の愛である。

「親切は社会と社会をつなぎ合わせる金の鎖である。」(ゲーテ)  
「愛と信頼とは万人の心霊にとって唯一の母乳である。」(ラスキン)

愛の乳は、出しても尽きる時がない。いや、出せば出すほど、よいものが多量に出る。愛のパンは、いくら分けてもなくなることがない。分ければ分けるほど、かさが増えて、余りができる。  愛は母乳の如く、与えぬと涸れてしまう。井戸水のように、汲まぬとくさってしまう。無尽蔵とは愛の倉につけた名であろう。この愛によって、すべてのものが、それぞれの個性のままに、育ち栄える。  愛にみちあふれて、皆がその所を得た有様を和という。いっぱいにたたえた姿、欠けた所がない、うらみも、そねみも、争いもない、みち足りた喜び、これが和である。  自然は調和の姿である。宇宙は大和の相である。春の花、夏の栄え、秋の実り、冬の充実、ひとつとして和の姿ではないものはない。  愛和は本と末、原因と結果の関係が愛によって和を得た相、和のもとは愛である。そしてこの愛和は、すべての幸福のもとである。親子夫婦のたてよこ十字の愛和は、家庭の幸福のもとであり、親子、長幼の縦の敬慈、すべての人の横の愛和、協力が、社会一切の幸福を生み出す。

「おのれの如く汝の隣を愛すべし。」(「マタイ伝」)
「仇を愛し汝等を責むる者のために祈れ。」(「マタイ伝」)
「すべて分れ争う国は亡び、分れ争う町また家はたたず。」(「マタイ伝」)
「愛は悪に対する唯一の武器である。」(ガンジー)

愛は万物を産み育て、和は万事を結実成就させる。

9.約束を違えれば、己の幸を捨て他人の福を奪う

「きめごと」というのは、大の天体の運行、四季、昼夜めぐり、小は火、水、電気などについてのことなど、これまで学者が研究し、発見したすべての法則。それは、はずれるとすぐけがをする、損をする。夜は燈がないと仕事ができぬ。雨の日に傘がないとぬれる……。  火はやけどをするし、電気はビリリと来る。こうした自然の約束は、知る限りは必ず守る。守らぬと身を亡ぼし、命を失う。  人のきめた約束はどうであろうか。いかめしい手つづきできめた法律、あるいは人がよりあって定めた、いろいろの規約、これは人のきめたものだから、守る守らぬは、そんなに厳密なものではない。時によると、うまくのがれれば得をするといったふうに、人のきめごとは、あまく見ている。これは大変な誤りである。法律も、規約も、人が何人か集まって、同じ目的で仕事をし、生きて行く為には、なければならぬきめごとである。だから、破れば皆が困り不幸になるということは分る。が、これを破ったからとて、知れねばそれだけ得をすると考えるのが、低級な間違った常識である。たとえば、さぎ、どろぼうが、働きもせずに、もうけてよかったと思うようなものである。ことに、いわゆるやみで儲けた、と得意になっているようなものである。  これは、大変な考えちがいで、少し目を洗い、耳をそうじして世間を見ていると、法網をくぐって出来た金銭、財産は、その人の身につかぬのみか、かえって、その人を、家を不幸にする。それこそ、1件の例外もなく、1人のもれもない。少しく頭のよい注意深い人は、これを一々の実例に見て、天の記録の精密さ、そのむちのきびしさに襟を正す。天をおそれることはこの事である。  これ以外に、普通約束といえば、何かある時、人と人とが約束したこと、きめたことと、考えられている。これも亦、破約の場合、間違った人は別に損得はないが、破られた方が損をすると考えられている。これも見かけの上の事で、破った方は、守らなかった責任がある。これがただ道徳上の責任というだけですむように思われている。それが実はそうではない。破った方が、必ずその責めを分担せねばならぬこと、いやでもきらいでも、その責めを実際生活の上に負わされて、困りぬいている実例の多いことは、この絶対倫理の一々実証しているところである。  とりわけて、きびしい破約に対する天の刑罰は、親子夫婦等の血縁の間の「きめごと」である。これは、まだ世に明かにされていない、ひめごとの幕に包まれている。絶対倫理はこの秘密の扉を開いて、血縁のきめごとの誤りから来た肉体上の苦痛を、見事に解決している。  ことにきめごとの中で、時間を守るという、文化人として最初のテストに見事に落第した日本人は、今日ただ今を期して、まず時間を正しく守ることからはじめて、生活をたて直さなければ、再びその時は来ないであろう。

10.働きは最上の喜び

人はただ生きているだけでは、何の意味もない。働いてはじめて生きがいがある。働いている時が、ほうとうに生きている時である。何もせずに、ぼんやり過した1日は、死んだ1日である。  じっとしていなければならぬほど、困ったことはない。仕事のない時ほど、つまらぬことはない。職を止めると、間もなく死んでしまう人の多いのは、仕事がなくなると同時に、気がぬけてしまうからである。  そして働く人は健康であり、働く人は長命である。世の人は、身体が悪いから働けない、というように考えているが、それは反対である。働かないから(こわごわと恐れたり、いやいやながらなまけたり)働く心がならぬから、体が弱々しいのである。病気になってからでも、出来る仕事を心配なく働きつづけていたら、それ以上悪くならないばかりでなく、次第によくなってくるもである。実はほんとうの働きの意味を知って働きはじめると、たいていの病気が直ってしまうのは、ここに幾百千の体験が証明している。  働きが一切であり、働きが人生である。働きが生命である。この働きには、そのままに、必ず「報酬」がついている。金銭でうける「報酬」は、多少があり、不公平があったりするかもしれぬが、この自然にして当然に受ける報酬は、かならず働きに比例して、落ちもなく、忘れられもせず、必ず直ちに与えられる。それは「喜び」という報酬である。ま心で働いた時、必ず喜びがわく。何の期待もなく、予期するところもなく働いた時、おのずからに感ずる喜びは、他のどんな喜びにもかえることは出来ない。  まことの働きには、すでに「喜び」という無上の報酬が与えられているので、いわゆる普通の給与は、喜んで働く人を、養い、歓待する天のめぐみである。いや、自然に与えられる割増金であると、感謝してうけるのがほんとうであろう。  世の楽しみは多い。好きな物をたべる、美しい物を見る、よい着物をきる……いろいろの喜びの中で、どれほどつづけるも、如何にひどくても、いよいよ高まり深まって行くのは、働きに伴う喜びである。地味で素朴で尽きぬ喜び、中でも、まことの働きにより、人を助け、人を救い、人の喜びをわが喜びとする、その喜び、これこそ地上無比な喜びである。  元来仕事そのものには、上下貴賤の別があるのではない。職業には尊卑はない。自ら軽んずる心を持つ働きを人が賤しと思い、自ら重んずる職業を人が尊ぶのである。つまらぬ仕事だとか、いやなことだとか考えて、仕事の好ききらいをする。こうした人は、一生涯たましいを打ちこんだ仕事につく事は出来ず、人生のまことの喜びを満喫する事は出来ない。  自分の只今ついている仕事の尊さを悟って、けんめいに働く時、自然に与えられる楽しみ、これは何物にも替えることの出来ぬ人生の喜びである、最高至上の歓喜である。  真の働きには喜びが伴うだけではない。肉体に健康も、物質の恩恵も、地位も名誉も、おのずからついてくる。  人が生きているということは、働くことである。働く喜びこそ、生きている喜びである。

11.物はこれを生かす人に集まる

「物は生きている」と言ったら、半分は「そうだ」と言い、半分は「そうではない」と言うであろう。しかし物はすべて生きている。着物も、道具も、機械も、金銭も皆生きている。  大切につかえば、その持主のために喜んで働き、粗末にあつかえば、すねて持主に反抗するだけでなく、時には腹立てて食ってかかる。けがをするというようなことはこうした場合が多い。  朝ばん、道具を拝むようにして働く農夫や大工が、その道具でけがをするというようなことはない。不足不平でぶつぶつ言い、機械をかたきのようにいやがり、どれいのようにこく使している人は、その機械の運転がまずく、時には大けがすることさえある。仕事に精根をかたむける人は、まず用具に手入れを十分にし、用具を大切にする。  用具をわが手足の如く大切にし、衣服をわが体の如く愛するだけでなく、農夫は作物を、生産人はそれぞれの生産品を、わが子の如く愛し、慈くしむ。そうした人たちによって、この上もないよい物が、たとえようもなく、たくさんに産み出される。  物を象徴し、すべての財を具象したのが金銭である。金銭は物質の中で、最も敏感な生物である。金銭はこれを大切にする人に集まる。ある富豪は必ずドウマキをもっていて、現金は肌身はなさず大切にして旅行した。ある人は、さつには必ずヒノシをかけてしわをのばして大切に保存した。人ごみの中に行った時は、金入れを必ず手でおさえていた。  しかしこうしたことは、金銭を大切にするほんの一面で、ほんとうに大切にすることは、むだに使わぬことであり、さらに金銭を生かして使うことであって、これがその頂上である。  物は、人と同じように生きている。人が徳の高い人のもとに集まるように、物もまた少しでもよく働かしてくれる人のところに集まる。物をほんとうに働かすとは、使う時思いきってこれを使う事である。ケチケチするのは、金銭を生かす事にはならぬ。大たんに、よろこんで、すぐにこれを出す。これは生かすこと、金を働かすことである。それで我欲の人は金銭を自分一人のために、自分の勝手のためにのみ使いたいという心であるから、活動したい子供たちを、親の勝手にしばりつけておくようなものである。  実は、金銭はその人の努力に正比例し、欲心に反比例して集まってくる。財貨は、喜んで働く人に自然にめぐまれる。欲心のあるだけ差引される。  大富豪は、実は無欲至誠の人でなければ、行けない境地である。  世には、報酬を要求し、金銭を請求するのを賤しい事のように思う人がある。取るべき金を取り、請求すべき金銭を妥協なく要求することは、何らはずべきことでないばかりでなく、かえって、生活にはっきりと筋道を立てる所以がある。  しかし人の働きは、金銭によってねうちをつけられるようなものではない。又働きの時間や分量によって、いくらいくらと計算されるようなものでもない。働く人の心――喜んでいるか、いやいやながら時間をつぶしているか、まことを傾けて一心に働いているか、千差万別である。  これをはかりにかけて一々計算したならば、一律の報酬では不公平極まるものとなるであろう。これは一体どうなるだろうか。一見不合理のようではあるが、長い目で見ていると、まことの働きによらずに得た金銭は、不時の入費の為に飛んでしまう。あるいは又、金銭のためにかえって苦しむということになる。金がある為に不幸になるのである。だから「金銭はその人の働きに応じて、自然にめぐまれるもの」ということが、わが民族の総合体験であり、我等が会得した人倫の哲理である。  一方、欲がなければ金銭にめぐめれぬと言う事も、一応考えられる事である。なるほどごう欲な人は金をためる。しかし金の為に、その人は幸福になったか、苦しむ事はなかったか。人からの恨みによって不幸に陥らなかったか。世にそうした不浄な金のために苦しむ実例は多い。  ほんとうに身につく金銭を得る人は、無欲の人である。大事業家は、無欲の人である。事業は欲心で左右されるようなものではない。ただせずにおられず、仕事そのものがすでに無上の喜び、無限の恵みであって、歓喜に満ちて働く、そこに事業はおのずから成功し、金銭は自然に集まるのである。  二宮尊徳先生が、弟子に示したたらいの水の例話のように、欲心を起して水を自分の方にかきよせると、向うににげる。人のためにと向うにおしやれば、わが方にかえる。金銭も、物質も、人の幸福も亦同じことである。  物はこれを愛する人によって産み出され、これを大切にする人のために働き、これを生かす人に集まってくる。すべて生きているからである。

12.得るは捨つるにあり

「気づいたらすぐする」ことが物事をしとげる秘訣である。又大切なことは、十分に研究調査し、準備を完全にして、時がきたと思えば、一気かせいにやってやりぬく。おしておして押し通す。  しかし1度には出来ない事が多い。第1回にうまく行かねば、第2回、又第3回と、何度も何度もくりかえし、うまずたゆまずくりかえす。点滴石をうがつ、固い土に棒杭を打ちこむようなもので、何度か打っている間にぎっしりと入って、もうこんりんざい動かなくなる。  又最初失敗すること、これは尊い月謝である。喜んで又改めてとりかかると、いつか大きい成功の栄冠がかがやく。しかし、どうしてもできぬ事がある。行くも帰るも、にっちもさっちも行かなくなる。その時である、古今独歩の妙手は、こうした無類の窮境に生れる。東西無比の秘術はこの時生れるのだと思って、何の未練も、予想も、後悔もなく、きれいさっぱりと捨ててしまう。  こうした一生に2度と出あうことのない大窮地に陥った時こそ、度胸の見せどころである。一切をなげうって、捨ててしまう。地位も、名誉も、財産も、生命も、このときどういう結果が生れるであろうか。  まことに思いもよらぬ好結果が、突如として現われる。いわゆる奇蹟というのは、こうした瞬間に起る、常識をはるかに超えた現象に名づけたものである。  重病人が、しずかに自分の天職を考えて、「ああ私は、畳の上で死ぬのではなかった、船乗だった、よし船で死のう。かついで行って乗せてくれ」と、愛船にかつぎ乗せられた。その瞬間、死の直前にあった脚気が一時に直ったという。こうした体験は、会友の間では、奇蹟ではなく、もう常識になっている。  事業の上でも経済の上でも、その他奇禍にあった場合でも、恐れ、憂え、怒り、急ぎ等々の私情雑念をさっぱりと捨てて、運を天に任せる明朗闊達な心境に達した時、必ず危難をのがれることが出来る。見事に窮地を脱することは、古人の体験であり、「窮すれば通ず」とは,このことをいうのである。  この事実は会友の幾百千の実験が、はっきりと証明するところである。

13.本を忘れず、末を乱さず

枝葉のことには気をつけるが、何事につけても本を忘れがちである。 初めは注意深くしっかりするが、終りは、どうにでもなれ、やぶれかぶれだ。これは世間にありがちのことである。スタートを切るそのとたんと、ゴールに入る一瞬、それで一切がきまる。ただそれだけではない。  世の中のことは、過ぎたらもうそれでよいというものではない。苦しんで入学試験を受けて、登校が許された喜びの日を忘れ、勉強しようとして学問に志したことを忘れるから、怠ける、あやまちがおこる。  開店の日のいきごみと、友人のよせられた厚意を忘れるから、少しの困難にも、気をくじかせる。終始一貫ということは、成功に秘訣であるが、これが出来ないのは、皆本を忘れるからである。  世に、「恩を忘るな」ということがやかましく言われるのは、本を忘れるなという意味である。食物も、衣服も、1本のマッチも、わが力でできたのではない。大衆の重畳堆積幾百千乗の恩の中に生きているのが私である。このことを思うと、世のために尽さずにはおられぬ、人のために働かずにはおられない。  そうした中でも、最も大切な、わが命の根元は、両親である。この事に思い至れば、親を尊敬し、大切にし、日夜孝養をつくすのは、親がえらいからではない、強いからではない。世の中にただ1人の私の親であるからである。私の命の根元であり、むしろ私自身の命である親だからである。

ちちのみの父に似たりと人が言ひし我まゆの毛も白くなりにき。 (僧 愚庵)

年をとると、年々父に似てくる、母に似てくる。たべもの、飲もの、顔形、くせ、考え方まで。なつかしの父母よ。  親が病気するのは子が不幸だからである。現にこれに気がついて、その子が行ないを改めたため、親の不治の病が直った体験は、『新世』誌上に次々に発表せられる通りである。  ほんとうに、父を敬し、母を愛する、純情の子でなければ、世に残るような大業をなし遂げる事はできない。いや世の常のことでも、親を大切にせぬような子は、何1つ満足にはできない。  親をとおして己の生命の根元にさかのぼれば、そこに神仏にかえる。敬神崇祖、即宗教に入ることが、真の人となるゆえんは、ここにある。

「立つ鳥は跡をにごさず」といわれる。あと片づけをせず、使った道具の手入をせず、靴を揃えぬ、傘のしずくを乾かさぬ、こうした事は身のたしなみとしての単なる作法だとか、行儀とかと心得ているのが、これまでの考えであるが,これを忘れることが、いろいろの不幸の原因となるのである。  ある家の子供が、もう相当な年齢もなっていても、小便をするに所と時を選ばぬ。困りぬいたあげく、喜んで、すべてのあと始末をする決心をして、両親がその生活をかえた時、ぴったりとこれが直った。子供のよだれくり、自分のもの忘れ、犬猫等家畜の不始末等は、こうした末を顧みない、だらしない心境の反映であることが多い。  ただそれだけではない。こういうしりのしまりのない人々の仕事は、多く七八分まで行って崩れる。もうだいじょうぶというところでガラリと行く。そしてこれを他人のせいにし、時勢の罪に帰せようとするが、実は、皆己の心境の反映にすぎない。  小さい事に末を乱す人は、大切な事に終りを全うしない。その極は悲惨な死様をすることにさえなるのである。  昔の人は死を重んじ、りっぱな死に方をしたいと念じた。正しく生きた人でないと、美しい死に方はできぬ。見事な死にようをした人は、見事な一生を貫いた人である。

14.希望は心の太陽である

夜が明けたから、日が出るのではない。日が出たから夜が明けて、天地が明るく、万物が眠りからさめて、生々と活動をはじめるのである。夜になっても、太陽はなくなったのではない。地球はいつも太陽の光明の中につつまれ、温熱の胸にいだかれている。ただその半分だけは、しずかに休ませて、明日の働きを一段とかっぱつにさせるために、黒のヴェールでつつんでいるのである。  希望は心の太陽である。つごうがよいから希望をもつのではない。一生に2度と出くわすことの出来ぬ仕事だから希望をもつのである。天から与えられた命、親からいただいた体、世界にたった1つのこの肉体だから、その前途にもえるような希望をもつのである。  一時の苦しみ、しばしの痛み、それは更に大きく、いよいよ健康に進み高まるための、しばしのくらがりである。これが去ったとき、夜あけのような光明の舞台が開ける。雨後のような晴ればれしさがめぐってくる。夜になったといって、だれが悲しむ者があるか。休みの時がきたのだ、すでに明朝が近づいたのだ。必ず明日がくる。  悲観は、雲である。憂いは、霧である。さわやかな希望の薫風で吹きはらおう。燈火をあかるくしよう。そして高く掲げよう。燈を太くしただけ、高くかかげただけ、必ず前途は打ち開ける。  今日に希望をもとう。明日に希望をもとう。前途にようようたる希望をもとう。仕事に、研究に、又身体に、日に月に新たな希望にもえていこう。  うまく行かぬから、望みを失うのではない。望みをなくするから、崩れて行くのである。みかけがよく見えたり、悪しく見えたりするのは、ただ表面の変化であり、一時のきまぐれで、かえっておもしろい事である。それは、すでに大きくのびるための、一時の屈曲であり、高くのぼるためのふんばりである。  常に心の燈火を高くかかげ、希望を強くもやし、仕事に情熱をこめよう。友に光を分とう。家の、村の、町の希望のみなもととなろう。  国の発電所となろう。民族の太陽となろう。  太陽の光と熱とが無限であるように、希望はいくら燈しても尽きる日はない。いくら高めても高すぎることはない。  あなたの仕事に、無上の希望をもちましょう。  あなたの体を、無限の希望でつつみましょう。  あなたの人生は、不断の希望の燈火でもえ立たせましょう。   太陽の焔、天日の輝き。
希望は常に若々しい。
希望は永遠の光である。

15.信ずれば成り、憂えれば崩れる

自信のないことは失敗する。練習するということは、その仕事なり、競技なりに慣れて間違いのないようにするのが、その形から見たところで、その実は、信念をつけるのである。信念をねりかため、ねりあげるのである。きっとできるぞ、きっとやるぞ、と動かぬ信念がその事を成就させる。  自信はモーターの馬力である、仕事の推進力である。形ではまだ出来ていないが、心ではもう出来上っているのである。  信ずるという事は、事実そうであるから、それと信ずるのではない。 そうであることは信ずるも何もない、もうすでにそうである。ほんとうに信ずれば、そうなるのであり、必ず信じた通りにさせるのである。  「信ずるが故に神あり」とは、この事をいう。信ずる所に神が現われ、仏がまします。故に「信は力なり」と言う。  人は、縄をもっては、その肉体をしばる事はできるが、その精神をくびることは出来ぬ。人の心をかなしばりにしばりつけるものは、ただ一つ信(まこと)あるのみである。「士は己を知る人の為に死す」(『史記』)と言った。知るとは信ずることである。心の底から信じてくれる人には、うえをつくことが出来ぬ。信ずる人をごまかすことは出来ぬ。  人の世の交りの本は「信ずる」ことであり、事をなすの根本の力は信念である。決心の強いか弱いかによって、仕事の成否がきまるが、決心ということは、今までなかった事を、こうしようと信念を定めることである。「ちかい」(誓)というのは、人と人とが、又人が人以外のものと結びあって、信念をかためることをいう。  「祈り」は、神にすがって信念を確立するのであり、大宇宙の大信念と一致しようとするのである。「祈るときすでに成就したものと思え」とは、そのことである。  悪人を善人にするただ1つの道は、信ずるにある。悪人だから信じられぬというのが常識であるが、悪人だから信ずる。信ずるから悪をしないのである。信は、動いて愛となる。そして、すべてをうるおし、すべてを充たす。信には欠けるところがない。信は成し、信はみたす。  憂えるのは疑うからである。あぶないから憂えるのではない。憂えるから失敗する。憂えるからあぶない。病気は恐れ憂えるから長びく、重くなる。事業は憂えるから崩れる。農業のような自然力によった仕事でも憂えるから実りが悪くなる。うれえるの反対は、喜ぶことである。希望にもえること、信ずることである。喜びより発して、信に帰る。愛は信より発する光であり、熱である。人生は信によって成る。乱れは信の欠けたことからおこる。

16.己を尊び人におよぼす

人は案外、浅知恵である。世の中にたった1つしかない宝を1ばん粗末にしている。その宝は、己自身である。昔、あるアフリカ人にカッパを与えた。雨が降り出すと、それをたたんで、わき下にかかえ、雨にぬれながら歩いて行ったという。  着物や金などは、大切にする、けちけちする。又、人から悪く言われたりすると腹をたてるが、その実、自分自身はいっこうに大切にしておらぬ。  いわゆる保健衛生に注意せず、命を縮めていることについては、ここに記すまでもない。人は働けば健康である。なまければ体は弱る。それに、何とかして仕事をすまい、うまい物はたべたい、楽はしたいと願う。これを命をちぢめたいという事になるのである。とりわけて、恐れ、怒り、悲しみ、ねたみ、不足不満の心、それはただに、一切の病気の原因になっているだけでない。生活を不幸にし、事業を不振にするもとであり、己の不幸をまねく根本原因であることを知らぬ。  最も己を大切にすることは、自己の個性を、出来るだけのばして、世のため人のために働かすことである。それには、仕事をなまけ、研究を怠り、身をおしんでいては、とても出来ることではない。己の一切を学問にささげ、事業に傾け、仕事に没頭してこそ、はじめて異常の働きができる。  己の、大きな向上、躍進、完成は、己を空しくすることである、身をささげることである。ここに必ず真の幸福が添うのである。  己を尊ぶ心そのままを人に及ぼしてこそ、世界は尊敬の光につつまれ、愛の慈雨にうるおされて、地上の楽土が出現する。  己を尊ぶの極は、ささげるにある。ここに人を尊ぶと己の尊ぶと、一如の絶対境が現われる。ささげ尽して己がなくなった時、一切が己となる、天地が己となる。自他一如、捨我の絶対境である。人の喜びが、まことのわが喜びである。世と共に喜び、人の悲しみをわが悲しみとする。  小さい己は、消えうせて、天地と共に生きる不死永遠の絶対境である。

17.人生は神の演劇、その主役は己自身である

宇宙の生命、統一の中心、万象の根源、これを神あるいは仏と言う。 民族により、宗教により、いろいろと名称は異なり、観方は違っているが、ただ1つの宇宙の統一力、支配者、主宰者をいうのである。しかし神は幽なるもの、説明を越え、思惟を絶する、感覚の外にある。言いようもなく、考えようもない。絶対と言い、無限と言うも、光明無量又寿命無量、そうした言葉の末で、その真をつくし得るものではない。言えばすでにちがう。考えれば、もうこれとはなれる。  万象は神の発顕、世界は神の顕現、人は神の性をうけて現われ、恰も天界での星の如く、小宇宙をなし、小中心をなして、その各々の境に於て主置に居る。  すでに、幽なる力が顕われて万象となり、形をとった力は、ひそんで幽界に統一する。故に幽顕一体であり、神人不二である。  この理を実にしたもの、これを神人合一、解脱、見神等と名づける。  ここまで行きついて、人は初めて真の自由を得る。自在奔放、心の欲する所に従ってのりをこえない。幽顕に出入し、神人に優遊して、自在ならざるはない。人かと思えば神、神かと思えば人、神人一致である。ここに人が顕界の主となる意義が成り立つ。  人は生命を神にうけているが、1度生れれば、各々の自性をうけて自由となる。この自由は、舞台における俳優の自由である。  人生は演劇である。劇作家、監督、演出、それは、ただ1人でかねていて、絶好無比、周到無類、到らぬくまもなく、及ばぬ時処もない。こうもこまかにゆきとどいたものかとおそれている。その上批評もし、報酬も与え、賞罰もあるが、公平無私、かつて1度の手落ちもなく、しすぎもない。  この演劇は、悠久の古から永遠の未来にまで踊りつづけている、大規模の幕切なしの劇である。全地上が舞台であり、濃藍の海と、緑の岡と、コバルトの空と、背景の美しさ。花あり、紅葉あり、鳥鳴き、魚躍る。廻り舞台には昼夜の別もない。  その大演劇の主役は、己自身である。家にあっては父、会社に出ては社員。そして旅行もあり、選挙もある。その時、その場を、いかに、真理(神)の筋書に合するように演出しているか。  役者がこの頃なまけているぞ、いや得意になりすぎたぞ。名優は言った、「うまいと拍手されるような事ではだめだ」と。時には他人の演ずる舞台の、観劇の場面もある。何れを見ても、悲劇・喜劇が、演ぜられている。小説や映画などは、この人生劇の1部を切りとって、解説した説明書である。これを手引に、地球座人生劇場の、真理の芸術を、満喫しては如何であろう。  無料、露天大活劇、新旧、喜悲、男女、老若、とりどりの大演劇である。そしてその主役は己自身である。  演出の作法(ルール)は絶対倫理であり、万人幸福の倫理である。

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